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鳩ヶ谷市の歴史
鳩ヶ谷の地形と地名の由来
鳩ヶ谷市は、面積は6.22km2と狭いながら、北部には大宮台地鳩ヶ谷支台が張り出し、南部には荒川低地が広がるという複雑な地形を有しています。
さらに、南部の低地には、大昔流れていた大きな川の跡があり、その川の流れによってできた自然堤防が川跡に沿って形成されています。市内の遺跡は、この自然堤防上に所在しています。
鳩ヶ谷の地名の「谷」については、大宮台地の斜面に食い込む谷が多い地形に由来しています。「鳩」については、平安時代の「和名抄」という史料に武蔵国足立郡発度郷という地名が見え、この発度郷をハト郷あるいはハット郷と読んでいたとする説があります。
なお、台地の先端部すなわち端(ハシ)という音がハトに転化したという説もあります。
原始古代の鳩ヶ谷
市内で人類が活動した痕跡が確認されるのは、約1万5千年前の旧石器(先土器)時代です。鳩ヶ谷在住と思われる人が初めて文献に登場するのは鎌倉時代ですが、それまでの間、延々と人々の生活が営まれていたことが、市内の発掘調査によって明らかにされつつあります。特に、市南部の低地にある三ッ和遺跡では、古墳時代前期の集落跡が発見されており、当時、すでに大規模な集落が存在したことが推定されています。
また、平安時代になると、やはり低地にある前田字六反畑第1遺跡では、建物跡や厚い板を四角に囲った立派な井戸、県下では出土例の極めて少ない緑釉陶器の三足盤や墨で文字が書かれた土器が発見されており、何らかの「役所的」な施設が存在した可能性があります。
中世の鳩ヶ谷
江戸時代以前の鳩ヶ谷については、史料が少ないため、断片的なことしかわかりません。しかし、鎌倉と奥州(東北地方)を結ぶ鎌倉街道中道が鳩ヶ谷を通り、交通の要衝として栄えたと推定されます。
市内に多くの中世遺跡が存在することは、中世における鳩ヶ谷の繁栄を物語っています。
戦国時代に入ると、鳩ヶ谷は、小田原の北条氏の支配下にありました。戦国時代の史料と推定される「市場之祭文」には、「鳩谷之里」に市が開かれていたことが記され、当時の鳩ヶ谷が流通経済の中心地の一つであったことを知ることができます。
近世の鳩ヶ谷
江戸時代には、鳩ヶ谷に日光御成道の宿駅が設けられました。街道に沿って屋敷が並ぶ鳩ヶ谷宿の町並みは、この時に形成されたと考えられます。日光御成道は、将軍の日光社参のための道路で中世の鎌倉街道中道を整備することによって開かれました。
現在の鳩ヶ谷市域は、江戸時代には鳩ヶ谷宿と7つの村に分かれていました。
いずれも幕府の天領(直轄地)でしたが、前田村は寛永寺領、上新田村の一部は根津神社領でした。
鳩ヶ谷宿は町場を形成しており、三・八市が開かれるなど、物資の集散地として賑わいました。他の村々は農村地域で、藍染や織物業といった産業も盛んに行われました。
近代の鳩ヶ谷
明治時代になると、近代的な地方制度が組織されていきました。鳩ヶ谷においても、1町7村が合併を重ねながら、明治34年(1901)に現在の鳩ヶ谷市域に相当する鳩ヶ谷町が成立しました。
旧鳩ヶ谷宿は、織物買継商や米穀問屋が軒を連ね、江戸時代以来の三・八市は、県内でも屈指の市として賑わいました。さらに高等小学校や浦和裁判所の出張所など重要な施設も鳩ヶ谷に設置されました。しかし、鉄道が通らなかったことによって、流通経済の中心地としての性格は、その後、大きく変容せざるをえませんでした。
平成13年(2001)に開業した埼玉高速鉄道、さらには今後の広域行政の進展によって鳩ヶ谷の歴史は、再び大きく転換することでしょう。